手放す知性

知性とは蓄積のゲームだと、昔から信じられてきました。覚えていることが多いほど、知識が増え、できることも増える、と。しかし脳そのものは、この常識を静かに否定しています。脳が最も多くのエネルギーを費やしているのは、過去を保存することではなく、戦略的に消去することなのです。完璧な記憶は、決して超能力ではなく、あなたを麻痺させてしまうでしょう。無限に続く関係のない詳細のスクロールには、前に進むためのカーソルがありません。

これこそが脳の不都合な真実です。忘却こそが、脳の最大の知的成果なのです。

この考えは直感に反するように思えますが、それは私たちが「覚えていること」と「知っていること」を混同しているからです。しかし、生き物がどのように学習するかを観察すれば、その論理は明快になります。知性は、捨てる力に依存しています。記憶は金庫ではなく、経験という形をしたふるいなのです。

脳はしぶしぶアーカイブする

もし脳がすべての感覚の痕跡を保持していたらどうなるでしょう。これまで歩いてきたすべての葉、通りすがりの会話のすべての音、過去10年間に出会ったすべての顔の微妙な表情。あなたは正確さの海に溺れてしまうでしょう。一般化もできず、パターンも認識できません。なぜなら、圧縮という作業ができないからです。

予測の観点から言えば、忘れすぎることよりも、覚えすぎることの方が問題なのです。

神経科学は長年これを示唆してきました。かつては幼少期の豊かさを失う悲劇と考えられていた「シナプスの刈り込み」は、今や脳が使えるようになるための中核的な仕組みであると認識されています。乳児の脳はジャングル、大人の脳は選び抜かれた庭園。その知性は大きさではなく、編集力に由来します。

だからこそ、赤ちゃんはあらゆる言語のすべての音を聞き分けられますが、大人にはできません。赤ちゃんはすべてを聞き、大人は必要なものだけを聞く。どちらが生き残る戦略かは明らかです。

(もう、お分かりでしょう。)

圧縮:意識の静かなエンジン

意識からロマンを取り除いてみると、残るのは圧縮アルゴリズムを走らせる予測マシンです。世界が一貫して感じられるのは、脳が絶えず一貫性のないものを捨てているからです。注意とはスポットライトではなく、むしろろ過システム。意識とは、そのフィルターを生き残ったものの残滓なのです。

ある意味で、脳は24時間365日、ファイル圧縮の認知版を実行しています。現実の圧倒的な解像度を、実用的な要約へと減らしているのです。ロスはあっても、機能的です。

詩的でないように思えるかもしれませんが、まさにこの圧縮が詩を可能にしています。圧縮がなければ、象徴も生まれず、象徴がなければ意味も生まれません。もし記憶がすべて文字通りだったら、言語そのものが崩壊してしまうでしょう。すべての文に大陸ほどの脚注が必要になるはずです。

脳は図書館になることを拒むことで、知性を維持しているのです。

進化が教える「忘却」

進化は、神経科学が言葉を与えるずっと前からこの技を発見していました。完璧な記憶を持つ生き物は、自分の歴史に迷い込んでしまいました。選択的な健忘を持つ生き物は、より速く学びました。ちょうどよく忘れる神経系は柔軟になり、何も忘れない神経系は脆くなります。

タコは短命ながらも賢い生き物で、急速な忘却の生き物です。人間は多層的な記憶システムを持つハイブリッド設計。文明を築くのに十分安定し、再発明するのに十分柔軟です。

データを愛する人間が設計した人工知能でさえ、進化の教訓を再学習しています。剪定しないモデルは役に立たなくなる。過学習――AI版の「覚えすぎ」は、愚かさと区別がつきません。

知性は、記憶が譲歩したときに生まれるのです。

努力の消失

何かを極めたことがある人なら、誰もがこの原理を体験しています。スケールを練習し、ルールを学び、細部に汗を流す。やがて、細部は消え――吸収され、溶け、忘れ去られ――直感的な流暢さが生まれる。もしすべての手順を覚えたままだったら、そんな流暢さはあり得ません。

忘却は直感の代償です。

私たちはしばしば「大切な瞬間を手放したくない」と願いますが、実際にはもっと面白い真実があります。一度統合されれば、それはもはや「瞬間」ではなく、構造となるのです。すべてのレッスンの苦労を覚えているピアニストには、演奏はできません。専門性とは、自らの起源を消し去ることを必要とします。

記憶が知性に最も大きく貢献するのは、自ら舞台を去るときなのです。

感情という編集者

ここまで話すと機械的に聞こえるかもしれませんが、感情が人間らしさを取り戻してくれます。脳が何を残すかを決めるのは感情です。喜びはパターンを強化し、痛みはそれを消します。後悔は、点滅するカーソル付きのデリートキーのようなもの。愛は、少し気恥ずかしいですが、インデックスシステムです。

記憶が神話的になったとき、それはすでに最も持ち運びやすい形に剪定されています。ノスタルジアは、圧縮が成功したものの、処理コストだけが残るときに生じます。

感情は認知の対極ではなく、編集長なのです。

予測を書き換える「喪失」

このことが最も明らかになるのが、喪失――グリーフです。私たちは人を悼むと思いがちですが、認知的には「予測」を悼んでいます。誰かが人生からいなくなると、その人の存在を期待していたループをすべて書き換えなければなりません。その痛みは、モデルが不本意ながら更新される音なのです。

時間が癒すのではなく、脳が癒します。蓄積ではなく、上書きによって。喪失は予測リソースの再配分を強いられ、やがて「その人がいない現実」へと心が収束します。受容とは、モデルが安定した瞬間です。

それは優しさではありませんが、知性的なのです。

創造性という「制御された焼却」

創造性もまた、一種の忘却であることに、私たちは普段気づきません。ただし、PRが上手なだけです。新しいものを生み出すには、もはや合わなくなったものを捨てなければなりません。科学者は前提を捨て、芸術家は下書きを捨て、子どもは大人が与えるよりも速く解釈を捨てていきます。

創造性とは、過去を絶対視しないという規律ある拒絶です。

心には、繁茂と剪定のサイクル――野生の探索の時期と、決断的な削除の時期――が必要です。前者がなければ新規性は生まれず、後者がなければ明晰さは得られません。

未来は、このリズムを管理できる神経系のものです。

忘却という静かな贈り物

結局、仕組みよりも教訓はずっとシンプルです。忘却は記憶の失敗ではありません。それは知性の構造そのものです。脳の大いなる賭けは、「完全性」よりも「明晰さ」を、「完璧な記憶」よりも「予測」を重視することにあります。

私たちは「覚えているから知っている」のではなく、「忘れるから理解できる」生き物なのです。

手放すことは弱さではありません。それは、次に来るもののためにスペースを作る心の方法なのです。

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https://willemdewit.work/ja/the-universe-that-hears-itself/the-intelligence-of-letting-go

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